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リベラルなナショナリズム、そして日本的な人権論や「知」のあり方を探る
 
お 話:比較社会文化学府教員 施 光恒
聞き手:比較社会文化学府教員 阿部 康久
 
阿部康: 取材をさせて頂きます比文教員の阿部康久と申します。実は、私、今日のインタビューを楽しみにしていました。施先生にお話をお伺いしたいと思ったのは、最近、「正義とは何か?」といった議論について、注目度が高くなってきているように感じるからです。これは何か社会的背景があるのでしょうか?

施: 直接的なきっかけとしては、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義が、NHKで放送されたのが大きいですよね。日本人はもともと勉強好きな国民だと思います。かつても『ソフィーの世界』という本が流行りましたし。特に最近、定年を迎えて暇ができた団塊の世代の人たちは、議論好きな世代なので、昔のクラス討論会のような雰囲気に好感を持ったのではないでしょうか?その一方で、社会全体の中で、「正しいこと」に対する常識的あるいは伝統的な感覚が衰退しているため、このような哲学的側面からの回答を求めるようになってきているのではないでしょうか?いずれにせよ「公正さ」や「正義」とは何かという問いに関心がもたれるようになってきたことは、政治哲学という分野を専攻する者としては嬉しいことですね。同じ分野の他の先生とも話すのですが、日本人の学者も、サンデルのような試みを、日本人の感覚や発想に基づいて進めていく必要があると思います。


施先生(左)と指導院生の白川氏(現・日本学術振興会特別研究員)
比文エントランスホールにて

阿部康: 先生のご専門は、政治哲学という分野だそうですが、一見、とっつきにくそうなイメージがあります。どうして、この分野をご専門に研究しようと思われたのですか?

施: 中高生の頃から政治に興味がありました。その頃は、より現実の政治問題に興味を持っていて、たとえば当時の中曽根総理の「不沈空母発言」等に反感をもったりしていました。当時は、どちらかと言えば、いわゆる「左寄り」の考え方をしていたと思います。私は法学部出身ですが、政治学に関心があったので、入学試験の時点で政治学科を受験しました。大学に入ってからは、現実の政治問題よりは、内省的で抽象的な問題に関心を持つようになりました。具体的には「人間にとって善い生き方とは?」、「善い生き方を可能にする社会とは?」など、非常に青臭い問題について考えていました。いまから振り返れば、バブル経済の明るかった時代になんと暗い学生だったことかと少々恥ずかしくならないわけではないですが…。

阿部康: 施先生と自分は世代が近いと思うのですが、1990年代前半頃は、冷戦が終わって、国際政治における日本の立場も変わっていった時期だったと思います。その中で冷戦時代には「正しい」と思われていた考え方が、否定され、全く逆の主張が説得力を持つ場合もあったと思います。最も私の印象に残っている事例は、第一次湾岸戦争をきっかけに、1992年に紛争地域の治安維持のために自衛隊を海外に派遣するPKO法が制定されたことです。冷戦時代には「自衛隊を海外に派遣することは、日本が再び侵略戦争を起こすきっかけになるから絶対に認められない」という考え方が支配的で、私自身もそれが絶対的に正しい考えだと信じていたのです。それが1990年代以降は「国際社会に貢献するために、日本も自衛隊を紛争地域に派遣し、平和維持活動に参加すべき」という主張がなされるようになり、そのような主張も説得力を持つようになってしまいました。それ以来、私は、「正しいこと」とは、時代や状況、立場によって変わるものだろうなと思うようになりました。施先生は、新聞などのマスコミでときどきかなり率直な発言をなさっているようにお見受けするのですが、施先生ご自身は、このような懐疑論的立場には立たれていないのですか?

施: そうですね。少々政治哲学っぽい話をしますと、いま阿部先生がお話になったのは「人間が持つ知識が確実に正しいとは限らない」ということであって、私は「普遍的な真理」自体が存在しないわけではないと考えています。そのような立場を「可謬主義」と言いまして、私自身の博士論文のテーマでもありました。まあそれはどうでもいいですね。私自身も、自身の主張に誤りがある場合もおおいにあると自覚しています。ただ、それは状況の中で、たとえば反論を提示されてから必要があれば修正していけばいいだろうと思っています。実際、私の基本的考えは、高校生の頃などから比べればだいぶ変わっていますし(笑)。最近の日本の政治には発言しないと非常にまずいと思うところが多々ありますので、このところ少々率直に語っています。例をあげますと、最近の政治のまずい点は……(※阿部康・註。以下、施先生の政治論議がはじまり、計3時間ほど熱い議論が続いたのですが、比文の教員紹介の趣旨にあまり関係ありませんので、日を改めて、また取材させて頂くことにしました(笑)。政治論議の内容については、興味があれば、直接、施先生の研究室を訪ねてみてください。天下国家について腰を据えて論じましょうということでした)。


昨今の政治情勢について熱く語る施先生(内容が載せられなかったのが残念)

(後日)

阿部康: 先日は、昨今の政治情勢について、長時間にわたるお話をありがとうございました。大変感銘を受けました(笑)。さて、紙面の都合上、話を進めさせていただきます。さて、先生が最近、関心を持っておられる研究課題は何でしょうか?

施: そうですね、いくつかのテーマがあるのですが、一つは、近年、英語圏の政治理論で注目されている「リベラル・ナショナリズム」という考え方を紹介し検討することです。「リベラル・ナショナリズム」とは、リベラリズムとナショナリズムとの関係を概念的、理論的に吟味していこうとするものです。ごく簡単にいえば、その背景には、リベラル・デモクラシー(自由民主主義)、すなわち自由、平等、民主主義などの諸理念を重視する政治秩序は、安定したネイションを基礎としてはじめて成り立つものではないかという考え方があります。たとえば民主主義に関して述べれば、人々の間にかなりの程度の連帯意識や相互信頼感がなければ、民主的審議は、実際には円滑に機能しないのです。また連帯意識や相互信頼感の源泉として一定程度の言語や文化の共有も必要でしょう。自由民主主義の秩序を支えていくうえで必要な連帯意識や相互信頼感を備えた共同体としてのネイションの役割を再評価しようとしているのが、「リベラル・ナショナリズム」論だとごく簡潔には述べることができると思います。このような考え方は、ルソーやJ・S・ミルの時代からあり、ある意味、伝統的な立場なのですが、グローバル化が叫ばれる現代の状況下において、あらためて注目され検討されている考え方だといえるでしょう。リベラル・ナショナリズム論が探求しているのは、リベラリズムという制約がかかったナショナリズムのあり方、つまり、いわゆる「健全な愛国心」のあり方であり、自由民主主義が成立しうまく機能する条件であり、また各ネイションの自決を基礎にした公正な多文化共生世界のあり方だといえると思います。


「リベラル・ナショナリズム」に興味がある方は、近著『ナショナリズムの政治学』(ナカニシヤ出版、2009年)をご一読下さいとのこと。

阿部康: 一般的には、リベラリズムとナショナリズムというのは、どちらかというと対立するものであるかのように扱われることが多かったように思いますので、両者の関係を協調的なものとして考えるべきという主張は大変興味深く感じました。では、このような「リベラル・ナショナリズム」という考え方は、現在、施先生が主要メンバーとして進めておられる、P&Pプロジェクト「知の加工学」というテーマと、どのように関係してくるのでしょうか?

施: リベラル・ナショナリズムの理屈からいえば、自由民主主義の発展には、各地の政治文化に根ざした政治制度、社会制度が望ましいということが、おそらく導かれると思います。地域に根ざした自由民主主義というものを可能にするためには、「知の加工」という視点が必要になるのではないでしょうか。たとえば、「自由」、「平等」、「民主主義」、「正義」、「公正さ」などの理念が、各社会のなかでどのように考えられてきたかを理解し、それぞれの社会で人々がなじみやすく愛着を持つことができるかたちの自由民主主義の秩序を構想していく必要があるでしょう。

阿部康: うーん。抽象的なお話なので分かりにくいですね。もう少し具体的な例を挙げてもらえませんか?

施: この関連で私が最近関心をもっているのは、日本における人権教育の手法についてです。初等・中等教育での人権教育、あるいは自治体などの人権啓発活動の現場では、日本の文化的文脈に根ざした、日本人になじみやすいと思われる人権の価値の説明がなされています。たとえば、「思いやり」や「やさしさ」、「相手の気持ちに気づくこと」等が、非常に強調されるのが日本の人権教育や人権啓発活動の特徴なのですが、これは欧米における人権の理解とは別種の発想に基づくものだといえます。欧米で最初に定式化された「人権」という考え方が、このように、日本の文脈の中で理解・解釈され、現場で広められているということは、大変興味深い実例だと考えます。日本は、こうしたいわば日本化された人権理解やそれを基礎にした人権教育を世界に紹介していくべきではないでしょうか。他の非欧米諸国における自由民主主義の可能性をそれぞれの国の文脈で考えるうえで一つのヒントとなるでしょうし、自由民主主義の理念そのものに対しても、新しい観点を示すことになるのではないかと思います。

阿部康: なるほど、このように例を挙げて説明してもらえると分かりやすいですね。

施: また、「知の加工」という側面は、「自由民主主義」や「人権」といったものに限らず、いわゆる近代文明社会を作るためにも必要なものであると思います。近代文明社会の発展には、たとえば西欧における宗教改革や啓蒙主義の哲学の発展にみられたように、「翻訳」の契機が非常に重要な役割を果たしてきました。西欧では、ラテン語など、いわゆる普遍語だとされていたものから、各々の土地の土着の言葉に翻訳されることを通じて、多くの一般市民が多様な先進の知に、ある程度平等にアクセスできるようになりました。このことが、西欧の各社会に大きな活力を生じさせ、それがいわゆる近代文明社会の成立の一つの原動力になったといえると思います。

阿部康: 面白い話ですね。このような事例は、近代期の日本でも見られたのでしょうか?

施: 日本の経験で言えば、明治期の日本は、欧米の進んだ学問を日本語に翻訳し、それに基づいて高等教育を行ってきました。明治の初期には、高等教育を日本語で行うべきか、それとも英語やドイツ語など外国語のままで行うべきかに関する論争があったのですが、結果的に翻訳によって日本語の語彙を充実させ、日本語で高等教育を行うことが選択されました。この選択の結果、多くの一般市民が外来の多様な先進の知にあまり大きな格差を感じることなくアクセスできるようになり、それによって社会に活力が生じ、日本における近代社会の成立が可能になったとみることができると思います。このように、それぞれの地域で活力ある社会を作り出すには、外来の先進的な「知」を、自国の歴史的、文化的背景を踏まえた上で受容していく過程が重要な役割を担ってきたといえるのではないでしょうか。

阿部康: なるほど。近代日本の場合は、このような「知の加工」がうまくいった事例だと言えるのでしょうか?

施: 日本は、この過程に自覚的かつ積極的であり、また秀でていると思います。そしてこのことが日本の社会や学問の発展をもたらした契機になっていると考えます。「知の加工学」という研究プロジェクトには多くの先生方のさまざまな思いが込められているのですが、私自身としては、「知」のこうした受容、加工、および発信の過程や手法に着目して、日本の社会や学問を再評価していくという新しい観点を提示できればと思っています。

阿部康: 本当に興味深いですね。他にもお話ししたい内容は山ほどあるのですが、紙面の都合により、省略せざるを得ません。読者の方で、施先生のお話に興味を持たれた方がいらっしゃれば、いつでも先生の研究室を訪ねてみられたらよいかと思います。今日は本当にありがとうございました。


チュートリアルを担当していた学部学生(21世紀プログラム課程)の皆さんと。